法理的な贖い
1. 罪の赦し──ルカ 24:47
2. 罪の清め──ヘブル 1:3
3. 義認──ローマ 3:24-25
4. 神に和解させられる──ローマ 5:10 前半
5. 地位的に神へと聖別される──Iコリント 1:2.ヘブル 13:12
1. 再生──ヨハネ 3:6 後半
2. 牧養──ヨハネ 21:15-17
3. 聖別──ローマ 15:16
4. 更新──ローマ 12:2 前半
5. 造り変え──IIコリント 3:16-18
6. 建造──エペソ 4:15-16
7. 同形化──ローマ 8:29
8. 栄光化──ローマ 8:30
神の全体的な救い
法理的な贖いと有機的な救い
神の全体的な救いには、法理的な面と有機的な面の二つの面があります。何が「有機的」であり、何が「法理的」であるかを理解するのは容易ではありません。しかしながら、「法理的」という言葉によって、それが律法と 関係があり、「有機的」という言葉によって、それが命と関係があることがわかります。ですから、神の全体的な 救いには、法理的な面、律法と関係がある面と、有機的な面、命と関係がある面があります。
しかしながら、神に創造された人はサタンに従って罪を犯し、堕落して、神の義に違犯しました。神は世の人 を愛して、人を彼の命によって彼と同じようにしようとさえされました。ところが、人はサタンにそそのかされ、 罪を犯して堕落し、こうして神の義に違犯しました。人が違犯したのは神の恵みや神の愛ではなく、神の義でし た。聖書全体によれば、神の義は神が事を行なわれる原則です。神が行なわれることは何であれ義であり、彼の 御座の土台(詩 89:14)は最も厳格です。ですから、ここで二つのもの、神の愛と神の義を見ます。神の愛によれ ば、神は人を彼と同じにしようとされます。ところが、人は罪を犯し、神の義に違犯しました。神の義は厳格で す。神が人のために行ないたいことは何であれ、彼の義の要求に合っていなければなりません。義が要求するこ とは何であれ、律法になります。ですから、聖書は、神が人を創造され、人が堕落した後、一定の期間が過ぎて、 神が来て人に律法を与えられたことを見せています。神の律法は彼の義にしたがって書かれ、立てられました。 神は義ですから、彼が立てられた律法のすべての項目は義であり、すべては義なる要求です。それゆえに、律法 は義の律法となります(ローマ 8:4 前半.9:31)。
ですから、神が彼の心の願いにしたがって人のために行ないたいすべてのことについて、法理的に大きな必要 があるのです。神が彼の命にしたがって有機的に、人のために行ないたいすべてのことは、神が彼の義なる要求 にしたがって、堕落した罪人を法理的に贖い戻すことを要求します。神の義は、 神が罪人を贖うことを要求しま す。これは、神の義が神にこう言っているかのようです、「神よ、あなたが彼らを愛されるのは良いことであり、 あなたが彼らの内で多くのことを有機的に行なわれたいのも良いことです。しかし、あなたはまず彼らを贖って、 あなたの義なる律法の要求を満たさなければなりません」。これが贖いです。神は罪人を法理的に贖うことによ って、彼の心の願いを、彼の命によって有機的に、自由に好きなまま行なうことができます。「好きなまま行な う」は、積極的に聞こえません。神は好きなまま行なっても良いと、どうして言えるのでしょうか? そうです、 実に、彼の贖いのゆえに、今日わたしたちの神は彼の好きなまま行なうことができます。彼が強盗を救いたいな ら、そうすることができます。彼が遊女を救いたいなら、やはりそうすることができます。ですから、聖書の中 で、強盗が救われたのを見ますし(ルカ 23:39-43)、遊女が救われたのも見ます(マタイ 21:31-32.ルカ 7:37.ヨ ハネ 4:17-18)。今日、神は真に好きなまま行なうことができます。ですから、神の全体的な救いは、法理的に要 求される贖いと、神の命を通して有機的に完成された救いから成っているのです。わたしたちは三つのものを区 別する必要があります。神の贖いは法理的なものであり、神の救いは有機的なものであり、神の全体的な救いは 神の贖いと神の救いの総合計です
法理的な贖い
神の救いの法理的な面は神の義により(ローマ 1:17 前半.3:21-26.9:30-31)、神の救いの手続きであって、 罪人の上で神の義なる律法の要求を満たします。それは、罪人が神の御前で赦され(ルカ 24:47)、洗い清められ(へブル 1:3)、義とされ(ローマ 3:24-25)、神に和解させられ(ローマ 5:10 前半)、地位上、神へと聖とされ(Iコ リント 1:2.へブル 13:12)、それによって神の恵みの中に入り、神の救いの目的を達成するためです。しかしな がら、法理的な面としての贖いは、神の救いの目的を遂行することはできません。なぜなら、それは手続きで あって、目的ではないからです。例えば、料理人は多くの時間にかけて台所で料理をし、宴席の備えをしま す。しかしながら、料理は彼の目的ではなく、手続きであるにすぎません。後ほど、客が招かれてその宴席を 享受することが、料理の目的です。同じように、神の救いにおいて、わたしたちの手続きの面、法理的な面に とどまるだけでなく、前進して有機的な面を享受できるようになります。
有機的な救い
神の救いの有機的面は、神の命を通してです(ローマ 1:17 後半.使徒 11:18.ローマ 5:10 後半.17 後半.18後半.21 後半)。法理的な面は、神の義にしたがって、神の贖いを達成することです。有機的な面は、命を通し て、神の救いを遂行することです。これは再生(ヨハネ 3:6 後半)、牧養(ヨハネ 21:15-17)、聖別(ローマ 15:16)、 更新(ローマ 12:2 前半)、造り変え(IIコリント 3:16-18)、建造(エペソ 4:15-16)、同形化(ローマ 8:29)、栄光化(ロ ーマ 8:30)を含みます。これは神の救いの目的であり、神の神聖な命を通して、神のエコノミー(ご計画)の中で、 信者たちおいて神が到達されたいすべての目的を達成します。