② 神は人を愛される

 

 ヨハネによる福音書第316節は、「神は……世の人を愛された」と言います。神は愛です。どうか注意してください。神は愛です! すばらしいことに、神はあなたのことを思い、あなたを顧み、あなたに注意し、あなたをあわれんでおられるだけでなく、実はあなたを愛しておられるのです。数日前、わたしは公園を歩いていて、一人の級友に会いました。わたしは彼に、イエスを信じるように勧めました。わたしはひたすら勧めましたが、彼は受け入れようとしませんでした。最後には、わたしは泣き出しそうになりました。神がいかに彼を愛しておられるかを彼が知ったなら!  と感じました。人はいとも容易に神の愛を誤解します。「この神はどういう神だ。神はわたしを救いたいのか? 本当にわたしのような人間を、神は救うことができるのか?」とあなたは思います。人は常に疑いで満ちています。しかし、神はあなたをあわれむだけでなく、あなたを顧みるだけでなく、神はあなたを愛しておられるのです! 幾世代にもわたって神が行なわれたことの中で最も難しいのは、人を愛することです。人が罪を犯した後に、神が行なわれた最初の事は、愛することでした。神は人に対して好意に満ちておられます。神は人が救われるようにと心配しておられるのです。あなたは、神は凶悪であり、あなたが神から遠く離れることを喜んでいると考えるかもしれません。ところが神はこの本、すなわち聖書で、ある神の言葉を与えてくださいました。それは、神が愛であると告げています! あなたが罪人であっても、神はあなたを愛しておられます。あなたが神から遠く離れていても、神はあなたを愛しておられます。次から次へと、神はご自分のしもべたちを遣わして、人々に神の意図を告げられました。神は 「女が自分の乳飲み子を忘れ、自分の胎の子に深く同情しないことがあろうか? たとえ彼女たちが忘れても、わたしは決してあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)と言われました。ああ、神はわたしたちを愛しておられます。神はかつて良い例証を使われました、「『もし、人が自分の妻を行かせ、彼女が彼から去って、他の男の妻となるなら、彼は再び彼女に戻るだろうか? その地は大いに汚されていないだろうか? ところが、あなたは多くの愛人と淫行を犯した。それでも、わたしに帰えるがよい』とエホバは告げられる。」(エレミヤ3:1)。ああ、神はこのように罪人を受け入れようとしておられます。ところが、神が世の人を愛しておられることを人は信じないのです。人は常に神がこのようにすばらしいことを疑います。しかし、わたしは言わなければなりません。神は愛です! 神はこのように世の人を愛して、ご自身が地上に来て肉体となり、人々に彼の愛を示そうとされました。

 ある時、わたしは山に行きました。わたしは山の花や鳥が好きです。わたしは鳥をかごの中に入れたくありません。わたしは鳥が自由に飛んでいるのを見たいのです。ある日、鳥たちがやって来て、わたしがベランダに残しておいた米粒をみな食べました。これにとても興味があったので、わたしは行って米を入れたお皿を持ってきました。わたしが近づくと、鳥たちは飛び去ってしまい、わたしが去ると、みな戻ってきます。わたしには鳥を捕まえたり害を加えたりする意図は全くありません。わたしは、鳥たちが来てわたしの米を食べるのを喜んでいたのです。わたしは鳥たちの真ん中に座って、彼らがわたしの周りを囲んでくれたら最高にうれしいと思いました。ところが、彼らはわたしの心を知らないで、いつもわたしを避けました。もし鳥たちにわたしの心を知ってもらいたいなら、唯一の方法は、わたしが彼らの言葉を語り、鳥になって彼らの間を飛び、彼らにわたしの意図を告げることです。そうすれば、わたしは誤解されないでしょう。しかし、わたしには鳥になる方法はなく、わたしの心を鳥たちに見せる方法もありません。神はわたしたちに対して、同じように感じておられます。神はわたしたちを愛し、わたしたちを好んでおられます。神はわたしたちに、ご自身に近づいてもらいたいのです。ところが、わたしたちは神の心を知りません。神の言葉は、神が昔、多くの部分に分けて多くの方法で、神のしもべたちを通して、神の心の願いを、また神がわたしたちを愛しておられることを語られたと告げています。ところが人は理解しませんでした。ですから、神は自らこの世に来て。人と成らなければなりませんでした。この人こそ、わたしたちの知っているイエス・キリストです。もしわたしが鳥に成ったなら、あなたはわたしがへりくだったと言うでしょう。しかし神が人に成られるのは、さらにへりくだることです。栄光の神がご自身を低くして人と成られるとは、何というへりくだりでしょう! 神はすべてにはるかに超越しておられますが、ご自身をむなしくして、奴隷の形を取り、人の姿で来られました。イエスが地上におられた時、行なわれたことはすべて、人に対する神の愛を表明しました。イエスの生涯を知れば、彼は良い人であるだけでなく、人になられた天におられる神であることを見ます。わたしたちは、神がわたしたちを憎んでいると思っていました。ところが、神は人と成って、神がイエスと同じであることを見せられました。イエスは地上に三十三年半の間おられ、この期間、神の愛を表明されました。神はイエスです。イエスが人を取り扱われる方法は、神が人を取り扱われる方法です。

 ある時、らい病の人がイエスを礼拝しに来て、言いました、「主よ、あなたがそのつもりであるなら、わたしを清めることができます」(ルカ5:12後半)。イエスはいとも容易に一句の言葉で彼を清めることができましたが、「手を差し伸べ、彼に触れて言われた、『わたしはそのつもりである.清められなさい!』」(13節)。らい病の人は汚れて悪臭を放っています! ところが、主は御手を伸ばして彼に触れられました。主はこの人に同情されました。主はこう言っておられたかのようです。「他の人がわたしに来ようとしなくても、あなたが来るなら、わたしはあなたに触れよう」。 

 またある時、姦淫の場で捕まえられた一人の女が、主の所に連れて来られました(ヨハネ8:3-11)。律法によれば、そのような女は石打ちで殺されるべきでした。主イエスは、彼女が罪を犯さなかったと言うことはできませんでしたが、彼女が石打ちで殺されるのを見たくありませんでした。ですから、主は言われました、「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」(7)。彼らはみな彼らの良心によって自ら責められ、最年長の者から最年少の者まで一人また一人と去って行き、イエスだけが残されて、その女は主の前に立ちました。主は何と言われたでしょうか? 「だれもあなたを罪に定めなかったのか?」(10)。彼女は、「だれもいません」と言いました。そこでイエスは言われました、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今後はもう罪を犯してはいけない。」(11節)。

 ああ、友人のみなさん! もしあなたが信じないのであれば、わたしはあなたに申しあげます。神はあなたを憎まれません。神はあなたを愛されます。

 もう一つの事例で、マタイという名の取税人が、多くの取税人や罪人を自分の家に招き、イエスも招きました。その当時、取税人はとても卑しめられた人でした。ユダヤ人は国を失って、ローマの統制下にありました。ユダヤ人が、自分の国を征服し、ユダヤ人をつらく扱う人たちのために働くのは、とても卑しむべきことでした。もしそれがわたしたちであったなら、わたしたちは彼らと一緒に食べ飲みしようとしなかったでしょう。ところが、イエスは彼らと一緒に食べ飲みされました。あなたはそのような人と一緒に座ろうとするでしょうか? あなたがそのような人と交際していることをもし他人が見つけたなら、あなたにとって大きな不名誉であるとあなたは思うでしょう。ところが、どのような場合にもイエスは行かれました。その当時、パリサイ人と呼ばれる人たちがいました。彼らはこれを見て、イエスの弟子たちに言いました、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか?」。彼らは議論し、批評していました。しかし、イエスはどのように答えられたでしょうか? 彼は言われました、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病んでいる人である……わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。イエスは、神の心を人々に開かれました。ある人は「神はまだわたしを欲しておられるのだろうか? わたしはこんなにもひどい罪人なのに」と不思議に思います。またある人は、人の物を盗み、姦淫を犯し、うそをつき、汚れに汚れた罪人のような者を神は欲しておられるのかと思います。しかし、イエスは神の心を開き、神がわたしたちを欲しておられ、わたしたちを愛しておられることを見せられました。イエスは実際にはこう言っておられます、「わたしは医者であって、病人を恐れない」。病人は医者を恐れるでしょうか? もちろん、恐れません。ある人たちは、今から良い人になり、決してかんしゃくを起こさず、かけ事をせず、映画にも行かないと心に決めます。しかし、彼らは二、三日はそのように行ないますが、再び悪いことをします。ある人たちは、神は自分たちを好んでいない、自分たちが滅びることを願っていると思います。しかし、わたしはあなたに言わなければなりません。神はあなたを欲しておられます。なぜなら、神はあなたを愛しておられるからです! 友よ、どうか今日、一つのことを行なってください。あなたの目からおおいを取り除いて、神があなたに対して何の悪意も持っておられないことを知りますように。神はあなたを愛しておられるのです。

 第一次世界大戦の時、ある伝道者が一人の少女を悔い改めに導きました。後ほど彼女はパリヘ行き、赤十字社の看護婦になりました。ところが、彼女はクリスチャン生活を送る上で、つまずいてしまいました。そこである日、彼女は教会の集会に行きました。そこでは同じ伝道者が福音を宣べ伝えていました。彼女は、この伝道者の心を傷つけるようなことを言おうと決心しました。メッセージが終わると、彼は彼女に握手をしにやって来ました。そこで彼女は言いました、「わたしはあなたが聞きたくないことを申し上げます。わたしはもうイエスは必要ではありません。わたしはそれでも喜びがあります」。その伝道者は答えました、「あなたはイエスがなくてもこの世で喜んでいることができますが、主イエスは天において、あなたなしに喜ぶことはできません」。これは本当です。神の御言葉を知っている人はみな、神はわたしたちを得てはじめて喜ぶことができると証しすることができます。神はわたしたちにあわれみ深いだけでなく、わたしたちを顧み、わたしたちを思っておられるだけでなく、わたしたちを愛しておられます。わたしたちに対する神の愛は、子供に対する母親の愛にまさります。わたしたちに対する神の愛は、夫婦の愛にまさります。神の愛は、夫と妻の愛にまさります。わたしたちは神が人をどのように感じておられるか、考えたことが一度もありません。しかし、わたしはここであなたがたに言います。神はあなたを愛しておられるのです!